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自由が丘は、映画の街であった

自由が丘が映画の街であったことをご存知でしょうか。1950年代から60年代にかけての自由が丘は、映画館の多い街でもあり、映画の舞台になった街でもありました。今回は、当時存在していた映画館とその跡地について触れるとともに、当時の流行映画と街に与えた影響、自由が丘を舞台にした2つの映画について紹介していきます。



南風座にて1962年頃配られたチラシより引用


1950年代の自由が丘には、6つの映画館が並んでいました。1960年には目黒区に15の映画館があったそうですが、このうちの半分近くが1つの街に集まっていたというのです。今では考えられない光景ですよね?

それもそのはず、戦後の日本は映画産業の絶頂期でありました。通商産業省が発行した『映画産業白書 : わが国映画産業の現状と諸問題 昭和33年』によると、1958年の映画館入場者数は11億2700万人とのこと。当時の日本の人口は9176.7万人。単純計算すると、国民1人あたり年間で12本の映画を鑑賞していたことになります。全国民が月1で映画館に足を運び、鑑賞していたということです。サブスクリプションサービスが普及した現代とは、単純に比較できませんが、かなり多くの人が映画を楽しんでいた様子がうかがえますね。

1953年にテレビが本放送を開始することになりますが、当時は高価なものでした。一家に一台など夢のような話。娯楽もそう多くありません。そんなこともあって、人々は映画館に足を運びました。しかしながら、テレビが家庭に普及するにつれ、映画館に足を運ぶ人が少なくなります。同じ時期、この街からも映画館が徐々に消えていくこととなりました。



○どんな映画館があったのか?

 自由が丘では、東宝・東映・松竹・日活・大映といった主要映画会社の作品を見ることができました。それぞれの映画館で専門としているものが異なっており、これは昔の映画館の特徴といえるもの。当時の情報は乏しいものですが、この街にあった映画館についてご紹介していきます。




①南風座/自由ヶ丘南風座

1946年に誕生した、自由が丘最古の映画館です。米軍が払い下げた飛行機の格納庫を利用して作られた映画館で、「かまぼこ映画館」という愛称で地元の人に親しまれていたそうな。1964年に閉館し、跡地は南風ビルが建っています。



南風座にて1949年頃配られたチラシより引用




②自由ヶ丘ロマンス座

1950年に誕生した映画館。南風座のオーナーが設立したとのこと。1960~63年頃に閉館。跡地には、自由が丘シーズビルが建っています。



自由が丘ロマンス座にて配られたチラシより引用




③自由ヶ丘名画座/自由ヶ丘松竹/自由ヶ丘東宝劇場

1952年に開館。松竹映画の封切館でありました。1974年頃に閉館。



自由が丘名画座にて1953年頃配られたチラシより引用


ちなみにこれら3館は、近い位置に密集して建っていました。これら映画館前の道を、当時は「映画通り」と呼んでいたそうです。




④自由ヶ丘武蔵野推理劇場/自由ヶ丘武蔵野館

1951年に誕生した劇場。東宝作品や洋画を公開していました。後に、名作劇場へと形態を変えます。1986年には、「自由が丘ミュー」という名の総合レジャービルとなり、スポーツジムやブティック、地中海料理のお店が入っていたとのこと。閉館は2004年。



自由ヶ丘武蔵野館にて配られたチラシより引用



⑤自由ヶ丘劇場

1956年に開館した映画館。洋画活劇を中心に、3本立てというスタイルで上映を続けていました。後に、日活・洋画のロマンポルノ、ピンク映画を中心に上映。1986年に閉館しました。跡地は、パチンコ店「プレゴ自由が丘」となっています。






⑥自由ヶ丘大映ヒカリ座/自由ヶ丘ヒカリ座

1954年から58年頃、自由が丘ひかり街の2階に誕生。洋画や大蔵映画を上映していました。1987年頃閉館しました。



自由ヶ丘ヒカリ座にて1958年頃配られたチラシより引用




○当時の流行映画

では、自由が丘ではどのような映画が流行っていたのかというと、洋画であったとのこと。キネマ旬報によれば、自由が丘での映画興行は、他の都市ほどの水準には満たないものの、訪れる人々は洋画の大作を好む傾向にあったと記されています。自由が丘に洋画の封切を行う映画館はなく、特に地元の文化人たちからは、「映画だけはこの土地で間に合わない」とこぼしていたそうな。

 産経新聞の掲載記事「自由が丘物語」には、自由ヶ丘武蔵野館のヒット作品ベストスリーが『ローマの休日』『カサブランカ』『スティング』であったとの記述も。洋画の中でも、特にラブロマンスやコメディー映画がウケていたのかもしれません。


○自由が丘を舞台にした2つの映画

この時代の自由が丘は、映画作品の舞台になっていました。それが『陽のあたる坂道』と『自由ヶ丘夫人』です。

 『陽のあたる坂道』は小説家の石坂洋次郎の作品。これを原作に、1958年映画化されました。石原裕次郎演じる主人公、田村信次は緑が丘の閑静な住宅街で暮らしていました。ある日、自身が父と芸者の間に生まれた子であることを知った信次。そんな彼が、妹の家庭教師としてやってきた女子大生・倉本たか子と出会うことで、次第に本当の自分の姿を取り戻していこうとする物語です。ちなみに、石原裕次郎と共演した北原三枝は、この映画をきっかけに結婚することになりました。

 もう1作、『自由ヶ丘夫人』は、武田繁太郎の小説を原作とし、1960年に映画化されました。6人の夫人グループに属する主人公、池上淳子が旦那である良策の浮気を知り、和解しあうまでのお話が、当時の自由が丘の様子とともに描かれています。特に本作では、名前こそ変えていますが、モンブランや田村魚菜学園、馬里邑といった、街を代表する存在が登場します。70年前の人たちの暮らしぶりや趣に触れられる、そんな1作です。(現在は絶版となっていますので、読むハードルは高いかもしれません・・・。)


このように、1950年60年代の自由が丘は「映画の街」として知られていました。街から映画館は消え、今やその面影はほとんど残っておりませんが、今も昔も洒落た街であることは確かであることが伺えますね。


参考文献

通商産業省「映画産業白書 : わが国映画産業の現状と諸問題 昭和33年」

・キネマ旬報社「映画館のある風景 昭和30年代盛り場風土記・関東篇」2010年

1990年 産経新聞『自由が丘物語 -No. 武蔵野館』

・石坂洋次郎「陽のあたる坂道 改版」角川書店 2006年

・武田繁太郎「自由ヶ丘夫人」光文社 1960年


※当社代表 西村康樹は産業能率大学客員研究員を務めており、担当授業である「自由が丘スイーツプロモーション」履修生、印牧くん(当時大学3年生)が執筆した。

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