top of page

自由が丘ってフリーダム? ―地名に込められた想いとは―

皆さんがお住まいの地域に、必ず存在する地名。土地の呼び名には、ほとんどの場合、つけられた由来があります。

例えば「半蔵門」や「八重洲」は、その土地にゆかりのある人が地名になっています。「台場」「蔵前」など、土地の用途が地名になったケースや、お茶屋が三軒あったから「三軒茶屋」、京都から美しい官女が来たから「美女木」など、変わった由来も。


では、「自由が丘」はどうでしょう?地名がその土地の歴史と深い関わりをもつ中で、「自由な丘」です。一体、何が由来でこのような名前が付けられたのでしょうか?


○自由が丘は、田園地帯だった

 かつて自由が丘一帯の地域には、「谷畑」という地名がついていました。その名の通り、谷と畑のある地帯。当時は水田や大根畑が広がっていました。実際に1896年から1904年にかけての地図を見ますと、田園地帯が広がっていたことがわかります。



 また、地名にある「谷」が示すように、この地は坂が多く、アップダウンの激しい地域です。坂の1つ「谷畑坂」には、こんな木の標識があります。


この坂の下は、サギソウが自生していた湿地だったこと、後に成される耕地整理以前から存在する道であることがわかります。



○鉄道の開通と耕地整備

 時は1923年、目蒲線(現目黒線)が開通し、近隣に「奥沢駅」が誕生します。しかし、先ほどの地図からもわかる通り、奥沢駅までは距離があるだけでなく、その道のりは整備されていませんでした。そこで、谷畑の耕地整理を行おうと地元住人が立ち上がります。中心となったのは、栗山久次郎。一面に広がる水田地帯を整備して、人々が通行しやすいようにしました。

 時を同じくして、渋谷―横浜間に鉄道を走らせる計画が持ち上がります。すると、栗山は自ら鉄道会社に赴き、駅の誘致に尽力。この活動が実を結び、1927年に開通した東京横浜鉄道東横線(現在の東急東横線)の駅ができます。この地にある「九品仏浄真寺」という大きなお寺から名を採り、「九品仏駅」が誕生しました。

 ところが2年後の1929年、大井町―二子玉川間に大井町線が誕生。お寺により近い場所に九品仏駅ができることとなり、改名の必要に迫られます。そこで当時、地元民の間で好ま れていた、「自由ヶ丘」という名が採用され、「自由ヶ丘駅」へと改称されたのです。



○自由ヶ丘の誕生

 では、本題の「自由が丘」という言葉は、いつ頃生まれたのでしょうか。これには同時期に誕生した野心的な学校と、この地に集った文化人による活動が大きく関わっています。

鉄道が開通した1927年11月、この地に「自由ヶ丘学園」という学校が開校します。自由主義教育を提唱する手塚岸衛(てづかきしえ)によって設立され、子どもの自発性や主体性を尊重した教育がなされていました。つまり「自由ヶ丘」という言葉は、学園の設立がきっかけで、誕生した言葉であったのです。

(ちなみに自由ヶ丘学園には、幼稚園から旧制の中学校までありました。後に幼児教育の研究家である小林宗作が、幼稚園と小学校を継承し、トモエ学園が誕生しました。トモエ学園は、女優の黒柳徹子さんが通っていたことでも有名です。)


 「自由ヶ丘」の名は、当時この地に集まってきた文化人から、支持されるようになります。彼らは仲間内と手紙でやり取りをする際、住所に「自由ヶ丘」と書いて送っていたほどです。実際、当時はそのような住所でなかったのですが、彼らの中ではすでに「谷畑」ではなく「自由ヶ丘」だったわけです。


特にこの名を気に入っていたのが、舞踊家の石井漠。手塚とはヨーロッパへの留学中に親交を深めていた仲で、船旅の途中では日本に理想郷を作る旨を語り合ったそうな。そんなこともあってか、この地に「石井漠舞踊研究所」を設立。モダンダンスの発展に尽力しました。

駅名を改称するタイミングで、この名を採用するよう熱心に活動したのも、石井をはじめとする文化人。当初は「衾(ふすま)駅」と決まっていましたが、結局「自由ヶ丘駅」へと改称することになりました。


以降、この言葉は、住民の間にも広まり、市民権を得るように。次第に地名化し、1932年には正式な町名になります。学園の名に端を発した名が、地元住民の熱心な活動により、地名にまで波及するというのは、類を見ない事例でしょう。



参考文献

・自由が丘スイーツ物語

・目黒の地名 自由が丘(じゆうがおか)

・今昔マップ on the web

・東京急行電鉄の成り立ち

・「東京の地名の由来」


※当社代表 西村康樹が産業能率大学客員研究員。担当授業である「自由が丘スイーツプロモーション」履修生、印牧くん(当時大学3年生)が執筆した。


bottom of page